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第1章 社内ベンチャー化を決意した“サラリーマンの壁”

【連載】ソニックガーデンストーリー 10年分のふりかえり

「納品のない受託開発」を掲げ、フルリモート勤務や管理しない組織など柔軟な働き方を実践するソニックガーデン。
メンバーへの取材をもとにその10年の歩みを追いました。

まだ、ソニックガーデンが産声をあげる前。TIS株式会社(当時は東洋情報システム)在籍時に倉貫義人が、手塩にかけて育てていたチームが突如解散されることに。倉貫ともう1人の“新人君”がポツンと取り残されたオフィスから、このストーリーは始まります。

2人だけになってしまったチームに、不思議な因果でソニックガーデン創業メンバーが集まっていき、“社内ベンチャーの立ち上げ”という誰も予想しなかった展開に…。

1-1 青天の霹靂

“後に残されたのは、僕と入社2年目のほぼ新人君の2人だけ。事業計画で予定していたことが何もできなくなって、明日から何をしたものか、顔を見合わせて、しばし呆然としていました。”
-「第二回 倉貫義人が語る、ソニックガーデンできるまで」(ソニックガーデンコーポレートサイト掲載)より

つい先日まで、20人ほどのエキスパートたちが集まりにぎやかだったフロアに、ポツンと座る2人の男がいました。1人は、後にソニックガーデン代表となる倉貫義人、「ほぼ新人君」と言われていたもう1人は、後にソニックガーデンの副代表となる藤原士朗です。

その2年前となる2003年、2人が在籍していたTIS(当時は東洋情報システム)では新たな技術や高度な技術を自社の競争力にするべく、優秀なエキスパートを揃えた「基盤技術センター」を設立。倉貫は同センターに配属され、当時はまだ新しかったアジャイル開発の知見やJavaなどの技術を社内外に発信する役割を担います。次第に活動の成果が認められ、チームは2年の間で20人ほどに増加。「結構いいチームに仕上がっていた」(※)と倉貫が語るように、明るい展望を抱いていました。

しかし、2005年の秋、突如会社からチームの解散を命じられます。当時、TIS社内で動いていた大規模プロジェクトに、基盤技術センターのメンバーのほとんどが投入されることになったのです。青天の霹靂だったその事件を振り返り、倉貫は「サラリーマンってホントに大変だなぁ」(※)と痛感します。

ちなみに、なぜ藤原だけが残ったかは定かではないですが、おそらくまだ入社2年目の新人だったからでしょう。今になって考えれば「2人の船出」とも言えるのですが、当時はただただ呆然とする日々が続くだけでした。

※引用:「第二回 倉貫義人が語る、ソニックガーデンできるまで」(ソニックガーデンコーポレートサイト掲載)

1-2 3つの変化

大規模な組織の持つ理不尽な力を味わった倉貫でしたが、気持ちを切り換え「3つの変化」を行います。

1. マネージャー→プログラマ
実は、この頃小さな会社への転職も考えていたという倉貫。ただ、当時の年齢と経験値ではプログラマとしてではなく、プロジェクト・マネージャーとしての転職の道しかほぼない状況でした。そうした状況を変えるべく、あえてマネジメントはいったん捨て、天職であるプログラマの道に戻ることを決めます。2人だけのチーム、という身軽な状態になったからできた決断でもありました。

2. Java→Ruby on Rails
若いプログラマも使い始め普及してきていたJavaで勝負するのは、得策でないと判断した倉貫。当時、まだアメリカで話題になり始め、競争相手の少なかった新しい技術であるRuby on Railsを使っていくことを決めます。

3. 受託開発→社内システム開発
SI事業者の受託開発モデルとアジャイル開発には構造的にミスマッチがある。そう考えていた倉貫は、社内システムを開発するプログラマになることでアジャイル開発を実践しようと試みます。この流れから開発されたのが、TISの社内コミュニケーションツール「SKIP」です。

この3つの変化は、後にソニックガーデンのビジネスモデルやカルチャーにも大きな影響を及ぼすものばかり。まだ目には見えないですが、ソニックガーデンの芽はこの頃から顔を出す準備をしていたようです。

「第三回 倉貫義人が語る、ソニックガーデンできるまで」をもとに執筆

1-3 2%

2005年の秋頃から社内コミュニケーションツール「SKIP」の開発をスタートさせた倉貫と藤原。スピード感を持った開発で、2ヶ月ほどでリリースをします。初期段階では、社内でも感度の高い人だけを対象にした招待制サイトとしてスタート。100人ほどのコアな社内のファンが中心となり、またたく間にコミュニティができあがっていきました。

約1年後、2007年4月に公式に社内システムとして承認されたSKIPは招待制を廃止し、全社員が使える状態になります。時を同じくして、倉貫のもとに新たに2人の新入社員が配属されました。

その名は、松村章弘(現・取締役執行役員)と安達輝雄(現・取締役執行役員)。

倉貫の部署はSKIPで一定の評価は得ていたものの、まだ社内での影響力は大きくありません。100人ほどいた同期入社の中で、倉貫の部署に配属となったのはわずか2人だけ。約2%のめぐり合わせで同じチームとなった倉貫と松村、安達は、その後十数年にわたって苦楽を共にすることになります。

松村、安達の2人はSKIPをさらに成長させるべく、技術力を磨きながら開発に勤しみます。松村は、SKIPの投稿を監視するアプリケーションの開発や、後に動き出すオープンソース化のプロジェクト(経緯は1-5に記述)などを。安達は、インフラを中心とした開発に関わっていきます。

「入社してそれほど年月が経っていないのに、大がかりなプロジェクトに携わるようになりました。当時は情報量も少なく、タブレットもない時代です。技術を勉強するために、資料を全部印刷して電車の行き帰りでひたすら読み込む、なんてこともしていました」(松村)

「後にAWSの本を執筆する並河さんのもとで、SKIP開発を通じてインフラの技術を学んでいました。この時の知見は今の自分のベースにもなっています」(安達)

1-4 メールのリマインド

SKIPの開発が軌道に乗り始めた2007年8月30日、一本のメールが倉貫のもとに届きます。送信元は、前田直樹(Programmer / 顧問CTO)。フリーランスのプログラマとして独立するにあたり、仕事先を探していた前田が、倉貫のチームで働きたいという要望を書いたメールでした。

「とあるイベントで、倉貫さんの話を聞いたのがきっかけです。当時は、Ruby on Railsを使える仕事を探していたところで、倉貫さんがプレゼンの最後に『一緒に働く人を募集しています』と言っていたんですね。会社を辞めることは決まっていたので、これはチャンスだと、思い切ってメールを送ってみました」(前田)

当時のメールが、まだ残っていました。在籍していた会社の退職が決まっていたタイミングでの、倉貫さんとの出会い。一縷の望みを託したメールですが、しばらく音沙汰がない状態が続きます。

前田が倉貫に実際に送ったメール


「忘れられてるのかな? と思って、リマインドのメールを送ったんです。そうしたら、すぐに返信が来て、倉貫さんと会って話すことになりました。諦めて、あのリマインドを送ってなかったら…今の自分はどうなってたでしょうね(笑)」(前田)

その後、業務委託社員として倉貫チームに参画した前田は、スーツを着てオフィスに通うように。ここから、今日まで前田はフリーランスの立場のままで、倉貫チーム、そしてソニックガーデン専属のプログラマとして共に働き続けることになります。

1-5 2回目の“悪夢”と社内ベンチャー

着々と仲間が集まってきていた倉貫チームですが、実はその場に藤原はいませんでした。なんと松村、安達が入社する直前に、藤原は別の部署への異動を命じられていたのです。

度重なる組織都合の人事命令に改めて“サラリーマンの壁”を感じた倉貫は、2つの大きな決断を下します。1つは、SKIPをオープンソース化すること。これにより、万が一自分が退職したり、異動となったとしてもSKIPと何かしら関われるようにするためです。前述した、松村が携わったオープンソース化のプロジェクトはこの流れを汲んだものでした。

そして、2つ目が自チームの事業部化でした。いわゆる、社内ベンチャー化です。

どちらもTISという大企業においては前例のないケース。「社内政治は得意だった」と語る倉貫は、草の根運動的な経営層へのアプローチを積極的に行い、まずはSKIPのオープンソース化の承認を得ます。そして、鬼門だった社内ベンチャー化も、技術担当だった役員がセットしてくれた、社長とのパワーランチという一瞬の機会を逃さず、見事その場で了承を得ることに成功(わずか1時間足らずのランチ内での決定だったようです)。

そして2008年秋、正式に新たな社内事業部としてスタートした倉貫チーム。発足当時の5人のチームメンバーには、松村や前田もいました。(安達は一度SKIP開発チームに残り、その後2009年5月に倉貫チームに合流)。ソニックガーデンの原型が、ここで生まれます。

めまぐるしく変わる状況でしたが、メンバーの1人である松村はポジティブに受け止めていました。

「倉貫さんに『まっつん、社内ベンチャー化しても、プログラマとして一緒にやっていこう』と言われてうれしかったことは覚えています。認めてもらえたって。ビジネスにも興味があったので、社内ベンチャーへの挑戦は喜んで引き受けました」(松村)

※参考:「第四回 倉貫義人が語る、ソニックガーデンできるまで」

この頃、「Social Change」もスタートしている


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