まずは話を聞きたい
採用サイト
文化を知る

第6章「納品のない受託開発は、属人的でオペレーションのない“サービス”」つまずきから気づく自分たちの本質と多様性の爆発

【連載】ソニックガーデンストーリー 10年分のふりかえり

「納品のない受託開発」を掲げ、フルリモート勤務や管理しない組織など柔軟な働き方を実践するソニックガーデン。
メンバーへの取材をもとにその10年の歩みを追いました。

納品のない受託開発という斬新なビジネスモデルで成果を出しはじめたソニックガーデンは、新たな試みとして「ギルド」という新たなプログラマを巻き込んだ仕組みに挑戦します。同じ頃、岡山県のプログラマたちと深い繋がりを持ったことがきっかけで新たな仲間も増えていくことに。「多様性の爆発が起きた」と倉貫が語る2013〜14年の足取りを追います。

6-1 ソニックガーデンギルド

2013年8月、納品のない受託開発を順調に進めるソニックガーデンはある試みをスタートさせます。「ソニックガーデンギルド」と呼ばれるその仕組みは、納品のない受託開発のビジネスモデルをオープンにし、自社外にそのノウハウを提供していくものでした。

「問い合わせが増え、社内にいるプログラマだけでは対応できなくなっていました。せっかく相談しにきてくれたのにお断りするのも心苦しい。解決する手段として、ソニックガーデンのビジネスモデルを他のプログラマに提供して、お客様と繋げるという方法を考えたんです。プログラマには案件を紹介する代わりにギルド加盟料をもらう。これが、ソニックガーデンギルドです」(倉貫

ギルドの仕組みについて解説された図


ただ単にプログラマを紹介するだけならよくある話ですが、ギルドの特徴は「納品のない受託開発のビジネスモデル」も一緒に提供すること。裏を返せば、ギルドに参加したプログラマは、納品のない受託開発のモデルで開発を進める必要がある、ということです。

この構想の反響は大きく、多くのプログラマから共感を得ることになり、ギルドに参加するプログラマも徐々に増えていきます。しかし、結果的にこの試みは失敗に終わりました。

「オペレーションが決まりきった仕事だったら、このモデルでもよかったのだと思います。でも、納品のない受託開発はお客様にあわせて、プロセスもコントロールしなければいけない。結局、そのプロセスコントロールに苦労するプログラマが多く、フォローのために我々のリソースが割かれることになってしまった。定例ミーティングで設計をする、1週間単位で実装していくというプロセスを習得するにはそれ相応の経験や時間が必要になる、と改めて気付いたんです」(倉貫)

自分たちの行っている「納品のない受託開発」は、コンサルティングとプログラミングを組み合わせたもの。あくまで、人がサービスとして提供するものである。納品のない受託開発は「属人的」なサービスだからこそ、簡単に人を置き換えられるものではないのです。結果、ギルド制度は停止となりましたが、自分たちのビジネスモデルを理解するきっかけにもなりました。

6-2 岡山県のプログラマたち

2013年から14年にかけて、岡山県から野上栩平の2人がソニックガーデンにジョインします。

共に働いた経験があり、近しい間柄にあった2人は、それぞれの観点でソニックガーデンのビジネスモデルや働き方に魅力を感じていました。

「栩平さんが働いていた、岡山にある開発会社DIGITALJETとは、昔からよく仕事をする仲でした。彼らと2013年の春頃に、岡山県で倉貫さんの講演を聴いたんです。もう、それで一気に熱くなって。当時はフリーランスで、将来についてもいろいろ考えていたときだったので、採用に応募しました」(野上)

一方、栩平は講演後の飲み会で繋がりを作ったことをきっかけに、DIGITALJETとしてギルドに加盟することに。ギルドメンバーとして納品のない受託開発を経験しながら、ソニックガーデンと深い関わりを持つようになります。

「最初、納品のない受託開発の話を聞いたとき、嘘でしょって思ったんですよ。倉貫さんや伊藤さんのブログも読んでいたので興味はあったと同時に、『本当に納品のないビジネスモデルなんてできるの?』って思ってました。でも、ギルドで納品のない受託開発に関わるようになって、『なるほど』と思うことも多かった。筋が通っているなと。ただ、ギルドの一員として納品のない受託開発を行うのは難しかったんですよね。ギルドが終わって、ソニックガーデンとの関係も薄くなってしまいそうで、どうしようかなと」(栩平)

その頃、野上はソニックガーデンのオフィスに足を運んだり、共に開発を行ったりとコミュニケーションを深めていきます。

「最初にメールでコンタクトを取って、Rubyで作ったソフトを見せたんです。反応を待っていたんですけど、なかなか返事がこない。だめだったのかなと思って、念のためにメールでリマインドをしたんです。そうしたら、返事がきて、渋谷で会いましょうかと。そこからアルバイト的に開発を一緒にしたり、スルスルと話が進み始めました。リマインドメールしてなかったら、入社していなかったかもしれないですね(笑)」(野上)

どこかで聞いた話のような気もしますが、野上、栩平それぞれのプロセスでソニックガーデンとの関係を深めていくことになります。

6-3 ゴーカート合宿

2013年の冬、毎年恒例の合宿が開催されました。この年は、ゴーカート場のある合宿地で、各々ふりかえりやこれからのビジョンを深く話し合うことに。この合宿に野上と栩平も参加していました。

「しばらく一緒に開発をして、自分としてはもう入れるんじゃないかっていう感覚はあった。でも、なかなか向こうから正式な入社のOKが出ないんです。合宿にも参加させてもらえているし、自分としてはもういいんじゃないかっていう気持ちがありました」(野上)

合宿最終日、アクティビティとして、ゴーカート場に足を運ぶソニックガーデンメンバーたち。朗らかな空気の中、野上は1人、意を決した顔で倉貫と藤原に声を掛けます。

「ゴーカートのスタート直前に、いきなり誠司(野上)が神妙な顔で近寄ってきて『ちょっといいですか』と。それで、小屋の裏に藤原と3人で行ったら『ソニックガーデンに入社させてください。子どももいるし、今しかないんです』というようなことを言ってきたんです。誠司は腕は確かだし、ソニックガーデンの価値観にも合っていたので、当然入社はOKでした。でも、なんで“さあ、これから遊ぼう”っていうあのタイミングだったんだろうというのは、ちょっと不思議でしたけど(笑)」(倉貫)

一方の栩平はギルドよりもさらに深く関わりながら仕事しようと、「論理社員」としてソニックガーデンの社員になることになりました。栩平はDIGITALJETに籍を置きながら、8〜9割、つまりほぼフルタイムでソニックガーデンの仕事をする。契約上は業務委託ですが、実質的には社員として働く、という体制にしようと決めたのです。

「僕としては、ソニックガーデンのビジネスモデルをDIGITALJETにも植え付けたいという思いがありました。でも、それにはギルドのように間接的ではできない。だから、自分がソニックガーデンの一員となりながら、少しずつDIGITALJETに還元していく形がいいのかなと。あまり例がない形ですが、倉貫さんは面白いとOKしてくれました」(栩平)

「概念をひっくり返すのが好きなんです。業務委託だ、副業だっていうのはあくまで書類上の話。ほぼフルタイムでジョインしてくれるなら、論理社員ということでいいんじゃないか。栩平さんとは長く一緒にやっていきたかったので、雇用契約に縛られるのではなく、関係性の“実態”にあわせて雇用契約を考える。前田さんの例もありますし、ソニックガーデンらしいのかなと思います」(倉貫)

こうして、岡山県から2人のメンバーがジョインし、ソニックガーデンはさらににぎやかさを増していくのでした。

2014年6月 岡山でのDIGITALJETとの懇親会

6-4 ギルドが生んだ繋がり

失敗に終わったギルドでしたが、栩平さん以外にも新たな繋がりを生んでいました。

2014年夏、人も増えはじめたソニックガーデンは神南にオフィスを移転。そのオフィスでは毎週のように飲み会を開き、繋がりのあるプログラマなどを招いては交流を行っていました。その中にいたのが、上田です。上田は神南オフィスから歩いていける距離の会社で働いていたのですが、プログラマとしてのキャリアに悶々としていました。

「当時は48歳ぐらいで、この先は管理職としてプログラマ人生を終えるしかなくなっていました。自分としてはプログラマとしてずっとやりたかったので、その道はどうもしっくりこない。実は、ソニックガーデンについては2011年ぐらいの頃から知っていて、すごい会社だなとは思っていた。そんな会社がギルドを始めるというので、副業感覚でやってみようかなと。ギルドに入ったことを機に、神南のオフィスにも毎週遊びにいくようになりました」(上田

50歳を手前に、思い切って踏み込んだ納品のない受託開発への道。ギルドは解散となるものの、ソニックガーデンとは良好な関係を続けていました。ギルドの経験から、手応えも感じていた上田は独立も考えますが、「1人では限界がある」とソニックガーデンへ入社することになります。

「2013年から14年にかけて、いろいろな試みをして、人も増えた。この期間は特に濃いですね。感覚としては、多様性が爆発した印象です。いっきに3人も増えましたし、ギルドなど新たな挑戦でいろいろな人に会った。少しずつ、私も現場仕事を離れ、経営に専念するようになっていきました」(倉貫)

2014年6月、倉貫は自身初となる著書『「納品」をなくせばうまくいく』を発刊。経営者として、自社の取り組みを発信していく仕事にも本腰を入れ始めます。

「創業から3年で納品のない受託開発はほぼほぼ今の形にできあがりました。その結果、倉貫さんの本ができた。早いと言えば早いですが、その間にはたくさんの苦労もありましたよ。軌道修正をしながら、少しずつ納品のない受託開発というビジネスモデルを育てていったんです」(藤原)

2014年 納品をなくせばうまくいくパーティー
前の記事
第5章 リモートワークのはじまりは、1人の“海外で働きたい”という宣言から
次の記事
第7章 私たちは、寿司屋の大将? サービス業としての「納品のない受託開発」で活躍するための試行錯誤
一覧へもどる
まずは話を聞きたい