AIで生まれた時間を「思い出」に使う
倉貫 義人
AIを使って執筆するのは、本当に楽になった。 生産性は以前とは比べものにならないほど高い。(これも音声入力から生成している)
その一方で、少し不安になることがある。 「自分の手で文章を書く」という行為が、自分の中から消えてしまうのではないか、と。 それによって、文章を書く能力そのものが失われるのではないか、という不安。
もっとも、これは歴史の必然なのだ。 Googleマップのおかげで地図が読めなくなり、 スマホのおかげで電話番号を覚えなくなった。 私たちはそうやって、便利な道具に能力を預けてきた。 今回もそれを受け入れていくしかない、と思っている。
だが、能力の喪失よりも「怖い」と感じていることがある。 それは「記憶」が失われていくことだ。
AIを使って執筆した時間は、どうも記憶に残りにくい。 これはAIに限らず、デジタル全般に言えることかもしれない。 結果に早くたどり着きすぎるがゆえに、 その途中のプロセスが、ごっそりと抜け落ちてしまうのだ。
コロナ禍の数年間を思い出してみる。 家から一歩も出ず、オンラインで仕事が完結した。 生産性は以前より高まった気すらする。 しかし、その期間の記憶が自分の中にどれだけあるかというと、 実際、ほとんど残っていないのである。
物理的なものには、記憶を繋ぎ止める力がある。 私が「倉貫書房」で紙の本を大切にしているのも、そのためだ。 電子書籍で読んだ本の内容は忘れても、 紙の本は、読んだ場所やその時の空気まで覚えていたりする。 重さや手触りといった「身体性」が、記憶のフックになるのだろう。
Netflixでドラマを観てもすぐに忘れるが、 映画館で観た映画をいまだに覚えているのも、同じ理由だと思う。(それは年齢のせいだと言われたら否定はできないが)
さて、私の個人的な2026年のテーマは「豊かさとは何か」を探ること。 金銭的な面も生活の面もあるが、それらを超えた先に残るもの。 それは「思い出の量」ではないか、というのが考えている仮説の一つ。
どれだけお金を貯めたとしても、 語り合える思い出が何ひとつない晩年は、あまりに寂しい。 将来はたくさんの思い出を抱えていること、 そして現在はその思い出を作れる環境にいること自体が、豊かさにつながるのかもしれない。
だとするなら、デジタルだけに振りすぎてしまうと、何も残らないってことになりかねない。苦労や面倒なんて無い方がいいけれど、思い出が残らないなんて恐ろしい。物理的で身体的な体験はなくさないようにしたい。
これは、組織においても同じことが言えるのではないか。 会社なのだから経済合理性だけで考えれば、利益が出る方を選ぶのが正解だ。 しかし、利益は残るが仲間との思い出は残らない。 果たしてそれで豊かだと言えるのだろうか。
私たちソニックガーデンでは定期的に合宿を行っている。 全員がリアルに集まり、一晩を共にする。 交通費も宿泊費もかけて、わざわざ集まることに、 大きな経済合理性があるわけではない。
互いの人となりを知り、人間関係を築くことで仕事がやりやすくなるという側面はある。しかし、それだと結局は生産性のために取り組んでいるので、別の方法で生産性が出るなら合宿などしなくて良いとなってしまう。
だが「長く働く仲間との共通の思い出を作る」と考えれば、やはり欠かせない活動となる。だからこそ、合宿そのものの効率化はしない方がいい。ちょっと準備が大変だったり、多少のトラブルがあっても、それも思い出になる。
そして、これは社内に限った話ではない。私たちの「納品のない受託開発」だと、お客さまとも長い関係を築くことになる。だとしたら、その関係が続く中で思い出になるような合宿や懇親会をしていけば、関係に彩りが生まれる。
一緒に過ごす時間の中で、何を残すのか。 長く一緒にいようと考えれば考えるほど、思い出の重みは増していく。
合宿のような思い出にお金を使うという文化が私たちにはあり、 それを文化資本と言う。そうした文化に従った活動をした結果、思い出という財産になり、それが関係資本となる。そんな感じの会社でありたい。
AIやITで効率化した先に、何をするか。 浮いた時間をさらに効率化に回すのではなく、あえて身体的な「思い出」に振り分けてみる。 「思い出にお金を使える会社」って、他にはない気がするし、私たちにとっては豊かだと思えるし、結果として組織も強くなれるのかも。