会社員だからこそできた、大企業での新規事業立ち上げ〜社長直談判から事業買取まで
倉貫 義人
先日、顧問ライターの長瀬さんと雑談をしていた時のことです。
彼が「まだソニックガーデンの創業前の話を詳しく聞いていなかった」と言うので、つれづれなるままに話をしました。
私がかつてTISという大企業の中で、いかにして新規事業を立ち上げ、社内ベンチャーを経て、最終的に事業を買い取って独立するに至ったのか。
今でこそ笑って話せますが、当時は予算もなく、営業の仕方もわからず、会社の合併や体制変更に翻弄される、まさに「泥臭い」日々の連続でした。
これは、何者でもなかった一社員が、大企業という環境の中で模索しながら進んだ、事業立ち上げの記録です。
「自分たちのチームを守りたい」がすべての始まり
長瀬:そもそも、なぜ大企業の中で「新規事業をやろう」と思ったんですか?
倉貫:最初は「事業をやりたい」という高尚な動機というより、「自分たちの場所を守りたい」という気持ちからでした。
元々いたのは本社の研究開発に近い部署で、全社の技術共有をするような文脈の場所でした。そこは言ってみれば「稼ぐわけじゃない部署」なんです。売り上げを持っているわけではなく、稼げない中で生産性を上げるのがミッション。
そうすると何が起きるかというと、会社の中で「稼いでないけど大事な部署です」とは言われていても、いざどこかで炎上しているプロジェクトがあると、優秀なメンバーが応援部隊として引き抜かれてしまうんです。
長瀬:ああ、なるほど……。本社部門の宿命ですね。
倉貫:そう。当時一緒に社内SNSを作っていた藤原(現ソニックガーデン副社長)も、いよいよ他へ持って行かれてしまって。「本社部門である限り、人を持って行かれる運命だな」と痛感しました。
逆に言えば「自分たちで稼ぐ事業部門になれば、そう簡単には人は取られないだろう」と。これは本当かどうかわからないけど、そうじゃないかという安直な思い込みがありました(笑)。
かつ、社内で作ったSNSがあったので、これで事業をやってみたいと考えたのが最初のきっかけです。世の中がWeb2.0と言っていた頃で、Webで事業をやるのが持て囃されていた時代でもありましたから。本当に安直でしたね。
長瀬:そこからどうやって立ち上げまで持っていったんですか?
倉貫:最初は本当に何も分かりませんでした。LP(ランディングページ)を作る発想すらなかったし、会社でお金をもらう仕組みも分からない。そもそも会社の通常業務ではないことをやるわけですから。
そこでまずは、作った社内SNSを「オープンソース」にして世に出そうと考えました。これも「サポートで稼ぐ」という当時の流行りに乗った安直なモデルでしたが、それすら前例がなさすぎて、誰も判断できない。
直属の上司に説明しても、口頭だけじゃ分からないから資料を作ろうと言われ、作ってみたものの書き方も分からず「想いの丈を書く」みたいな資料しか書けなくて(笑)。
それでも、いろんな役員を紹介してもらって順々にプレゼンして回りました。
長瀬:かなり地道な活動ですね。
倉貫:半年以上かけて、ようやく役員会議に掛けてもらえることになりました。
TISという何千億も売り上げがある上場企業の経営会議で、平社員の上申になんか時間は割けないんですが、無理やり5分だけ時間をもらって。「予算100万ぐらいでいいのか? 1億ぐらい要らんのか?」と聞かれましたが、「さすがにそれは要りません」と答えて、なんとかオープンソース化の承認をもらいました。
これが最初の「ビジネスのための鍵」を手に入れた瞬間でした。
社長とのランチでプロジェクターを取り出す
倉貫:オープンソース化の承認をもらったのが2月頃。やっとスタートラインに立てるかと思った矢先、3月に会社がインテックと合併する話が出たんです。
長瀬:ああ、ありましたね。
倉貫:社長が交代し、役員陣もガラッと変わる。「また新しい人が来たぞ」と。せっかく役員会まで行って認められる関係になったのに、また振り出しに戻るのかと焦りました。
ただ、新しく来られた社長が「新しいことをやりたい」という意欲のある方だったのが幸運でした。
長瀬:そこが大きな分岐点でしたね。
倉貫:ええ。新社長が社員との1on1、ランチミーティングを積極的にされていて、全社員とは無理ですが、面白いやつ、見込みのありそうなやつと会う中で、たまたま僕も候補に挙げてもらえたんです。
長瀬:初対面の社長とのランチですね。
倉貫:はい。ランチタイムに社長室で初めて会うんですけど、「ここで話すしかない」と思って、いきなりプロジェクターを持ち込んでプレゼンを始めました。
長瀬:ランチそっちのけで(笑)。
倉貫:さすがに社長も面食らってましたけど、中身が面白いというよりは、「こいつ面白いやつだな」と思ってもらえたんだと思います。「面白いからやってみよう」と言ってもらえました。
最初は子会社化の話もありましたが、手続きも大変なので、まずは「社内ベンチャー」という形で、現場の部署の片隅を借りて「準備室」をスタートすることになりました。
もし、新しく来た社長がそういうことに乗り気な人じゃなかったら、今のソニックガーデンは実現しなかったでしょうね。
長瀬:30代前半の平社員が社長に直談判するというのは、今聞くとかなりダイナミックですね。
倉貫:無謀でしたけどね。でも、社員だからこそ社長や役員と話せるチャンスがある。これは大企業で働く特権かもしれません。
テレアポ営業が「顧客インタビュー」に変わった
長瀬:準備室が始まってからは順調でしたか?
倉貫:いえ、全く(笑)。
当時はWeb2.0ブームで、「フリーミアム」や「1ユーザー数百円」の薄利多売モデルを目指していたんですが、時代が早すぎました。まだ「SaaS」や「サブスク」なんて言葉もない時代ですから、企業に導入してもらうハードルがとにかく高かった。
長瀬:営業はどうしていたんですか?
倉貫:営業経験がないから「BtoBといえばテレアポだろう」と言われるがまま、営業支援の会社に入ってもらってリストを作り、片っ端から電話したりもしました。電話だけは早々にギブアップしましたけども。
ただ、今振り返ると、その「売れない営業」がすごく良かったんです。
長瀬:どういうことですか?
倉貫:アポを取ってお客様のところに行くんですが、売れないからこそ、いろんな話を聞いて帰ってくるんです。「実はこういうことで困っている」「この機能はいらない」とか。
それを持ち帰って、帰りの喫茶店で作戦会議をする。「本当にお客さんが求めているのはこれなんじゃないか」と。
今で言う「顧客インタビュー」を、営業という名目でやっていたことになりますね。
長瀬:なるほど。売り込みに行ったはずが、ヒアリングになっていたと。
倉貫:そうなんです。しかも、それを「開発をやっている当事者」がやっていたのが大きかった。
開発者が直接、生の困りごとを聞くから、すぐに商品に反映できるんです。最初から営業担当者を雇って任せていたら、この「顧客のニーズ」と「プロダクト」のズレには気づけなかったかもしれません。
自分たちの考えたサービスを売るのではなく、お客さんの困りごとを解消しないと役には立たない。その商売の原点に、泥臭い営業を通して気づくことができました。
「専門家」としてのポジションを確立する
長瀬:そこからどうやって軌道に乗せたんですか?
倉貫:それでも全然すぐには軌道に乗るなんてことはなくて。Zoomもない時代に足繁く通って、1ユーザー数百円の契約を取っても、営業コストで大赤字なんですよね。
「これじゃダメだ」と気づいて、そこから方向転換しました。
長瀬:どう変えたんですか?
倉貫:「お客さんの困りごとに徹底的に寄り添う」スタイルに変えました。
数撃ちゃ当たることを狙ったテレアポはやめて、しっかり時間をかけて導入支援をする。その知見をブログや勉強会で発信して、「専門家」としてのポジションを作る。そうすると、テレアポしなくてもお客さんの方から相談に来てくれるようになったんです。
今思えば、お金をかけるんじゃなくて、時間と知恵と手間をかけてましたね。
そこからは営業をしていた藤原のターンになるんですが、彼が予算取りの前段階からお客さんに入り込んで信頼関係を作ってくれて。「導入してくれるか分からないけど、困ってるなら助けていいですか?」と。うちは商品が売れない状況が続いていたので、ヤケクソだけど「やってみな」と任せていたら、お客さんの困りごとに寄り添い続けた結果、導入が決まるということが起きました。
長瀬:それで大きいところに入ったんですよね。
倉貫:そうです。それで首の皮一枚繋がりました。
今まで言われていた「営業だ」「マーケだ」というやり方とは違いましたが、自分たちの知見をシェアして、先に役に立つことをしたら、あとでお金がもらえる。商売って本当はそうなんですよね。
そこから大企業への導入が決まり出し、立ち上げから1年半ぐらいで単月黒字化を達成しました。
組織変更の中で選んだ「事業買い取り」という道
倉貫:単月黒字になり、事業として離陸し始めた頃、また会社の体制が変わることになりました。今度は後ろ盾だった社長が会長になり、経営陣がまた入れ替わることになったんです。
長瀬:また「新しい人が来るぞ」となるわけですね。
倉貫:僕たちとしては「そろそろ子会社化して独立採算でやりたい」と思っていたんですが、会社の方針としては「子会社を吸収合併して本体に戻す」という流れになっていて。「子会社化はナシ」と言われて、梯子を外された状態になりました。
周りからは「会社がゴタゴタしているから、少し様子を見たら?」と言われましたが、このまま塩漬けにされるか、どこかの事業部に吸収されて解散させられるか……という危機感がありました。
そこまでやってきたことで、いいチームができていたので、このチームを守るにはどうすればいいか。
色々考えた結果、「僕が会社を辞めて独立するから、この事業を買い取らせてほしい」と提案しました。
長瀬:すごい決断ですね。
倉貫:ちょうどその検討の最中に、3.11(東日本大震災)が起きたんです。
多くの人が亡くなるのを目の当たりにして、「会社でお利口さんにしていても、死ぬときに後悔するな」と強く思いました。それが最後のひと押しになって、腹が決まりました。今思い返すと、ちょっと正気じゃなかったかもですね。
震災のあった3月の、年度末ギリギリの役員会議でなんとか決議を通してもらいました。会社もゴタゴタしている中でしたが、最後は「いいんじゃないか」という雰囲気になって。
そこからはもうTISの社員ではなく「外の人」扱いになるので、自分たちでオフィスを借りて、登記して、税理士さんを探して……と大慌てで準備をして、2011年7月1日に株式会社ソニックガーデンとして登記しました。
大企業の中にいたからこそ出来たこと
長瀬:改めて聞くとダイナミックな話ですね。大企業だからこその動きに左右されつつ、その中でどう舵を取るか。
倉貫:そうですね。大企業の中にいるだけでも社会の動き並みに変化があって、それに影響を受けながらなんとかやっていく。
合併しようが社長が変わろうが、普通の社員ならそこまで影響を受けないかもしれませんが、新規事業をやっているとめちゃくちゃ影響を受けます。
でも一方で、「社員だったからこそ」のメリットも大きかったなと思います。
普通なら会ってもらえないような役員や社長に、社員という立場なら話を聞いてもらえる。そして「3年ぐらいならやらせてみるか」という懐の深さもありました。
長瀬:商売の原点に気づけたのも大きかったですね。
倉貫:そうですね。最初から整った環境にいたら、「お客さんの困りごとを解決して対価をいただく」という商売の基本を、あそこまで泥臭く学ぶことはなかったかもしれません。
当時を振り返って
こうして振り返ると、ソニックガーデンの創業は、決してスマートなものではありませんでした。
しかし、大企業という環境に身を置き、そのリソースや機会を活かしながら、壁にぶつかって自分たちで道を切り開こうともがいた経験こそが、今の私たちの経営スタイルの基礎になっています。
今、大きな組織の中にいて「何か新しいことをしたい」と思っている人にとっても、会社員という立場は意外と大きな武器になるかもしれません。この記録が、何かの参考になれば幸いです。