結果を目的にすると、手段はAIに代替されていく
とあるポッドキャストに呼ばれて、ブログや本を書くことについて話してきた。なぜ書くのか、モチベーションは何かと聞かれて、改めて考えてみると、答えに窮した。
ブログは、20年以上前から書いている。始めたのは流行っていたから、くらいの動機だった。それから今まで、あまり書くことの目的を考えてはこなかった。答えが出てこないわけだ。
目的を持って書くとしたら、読者を増やすとか、仕事につなげるとか。そうすると、それが果たせなかったときに、書く理由がなくなってしまう。
それに、結果を目的に置いた時点で、営みは手段になる。手段だから、もっと速くて楽なものに代わりがきく。役に立てばいい、という技術的な記事ほど、いまはAIに聞けば済む。読者を増やしたいだけなら、ブログなんかやめて別の手段をとっていたかもしれない。
でも、音楽を聴くのは、何かを得るためではない。ゲームも、始めた瞬間にエンディングが流れても嬉しくはない。過程そのものが目的と言える。
本を読むのも同じだ。知識を得るために本を読んでいた人は、それが果たせるなら、本を読まなくなるだろう。AIに聞くか、要約サービスを使えばいい。
けれど、本を読む人はいる。役に立つから読んでいるわけではないのだ。小説のあらすじだけをAIで知って、何が面白いのか。これからは、役に立つことだけを提供する本は、求められなくなっていくのかもしれない。
仕事だって、お金を得るためだけなら、過程はないほうがいい。でも、やっていること自体を楽しめる仕事もある。そんな働き方を、『仕事技芸論』という本に書いた。
私にとっては、書くこともそういう営みだ。書きながら、自分の考えを整理している。AIと一緒に書くようになっても、この過程は手放していない。
かといって、自分のためだけに書いているわけでもない。記事ごとに、伝えたいことはある。ただ、読んだ人が変わるかどうかは、その人次第だ。文章で人を変えることはできない。
それでも、変わるきっかけにはなれる。ケント・ベックの『XP エクストリーム・プログラミング入門』を読んで、自分がやりたかった開発を、仕事としてやれている人がいると知った。だから、自分にもできるかもしれないと思えた。私も、本をきっかけに変わることのできた一人だ。
納品のない受託開発も、全社員リモートも、徒弟制度も、本当にできるのかと半信半疑な人は多いのではないか。やれたよ、と書き残しておけば、誰かの脳のブレーキが外れるかもしれない。
それを目的と呼ぶと、少し違う。読んだ誰かにとって、自分にもできるかもしれないという希望になればいい。そのくらいの気持ちで書いている。