第1章 変わりたいですか ── 思考を他人に委ねる癖

謎の男

僕は公園のベンチに座り、うずくまるような格好で、さっき見た映像について考えをめぐらしていた。あの男が本当に未来の僕だとしたら、十年後に会社をリストラされることになる。それに、ありえないぐらい冴えない中年男性に成り果てて……。岩のように重たいものが背中に乗っているような気がして、体を動かそうとしても動かせない。弱々しいライトが点く薄暗い公園で一人、僕はぽつんと世界から取り残された気分だった。

「ちょっと、そこどいてくれませんか?」

ふいに、男性の声が聞こえてきた。間違って動画を再生してしまったかと思い、僕はワイヤレスイヤホンを外す。

「聞こえてますか? そこ、どいてくれませんか?」

さっきよりも、鮮明に男の声が聞こえた。頭を上げると、目の前に深緑のパーカーとジーンズ姿で、紙袋を片手に抱えた男性が立っていた。メガネをかけているが、眉間にシワをよせているのがハッキリとわかり、少し不機嫌そうに見える。なんだか、無愛想な男だ。

「あと、二十秒なんです。すみませんが、どいてくれませんか?」

他にも空いているベンチがあるのに、なぜわざわざここに? そう思いながらも、僕は重たい体をなんとか動かし、同じベンチの端に移動した。ベンチは三人がけほどの大きさなので、一人分のスペースが間に空く。他のベンチに移動するほどの元気が、僕にはなかった。

「どうも」

五十を少し超えたくらいの年齢だろうか。髪型は、綺麗に散髪されたショートヘア、新品のスニーカー、左手首にはスマートウォッチ……。ラフな格好の割には、どこか品のよさを感じさせる佇まいだった。

男は、紙袋に手を入れて、しばらくそのままの姿勢になっていた。なんだ……?なにを取り出すんだ? まさか、刃物とか拳銃とか……なんてことはないよね?

数秒ほどが経過し、男は紙袋からさっと手を出した。僕は一瞬ビクッとして、無意識に手で頭をガードした。……なにも起きない。

おそるおそる視線を男に向けると、その手にはなんと、クロワッサンが握られていた。男は紙袋を置き、スマートウォッチを見つめはじめる。そして「よし」とつぶやくと、クロワッサンを口に運んだ。パリッと音がなる。男は目をつむり、クロワッサンの味を堪能する。

「うん。やっぱり二分四十三秒がちょうどいい」

意味のわからない独り言をつぶやくと、もう一度クロワッサンを口に運び、パリッと音をならす。男は僕の視線に気づいたのか顔をこちらに向けると、おもむろに話しかけてきた。

「ここから百メートルほどのところにある、小さなパン屋さんを知っていますか?」

パン屋? 確か小さい路地を入ったところにあったのは知っているけど、店に入ったことはなかった。

「ああ、はい……」

「あそこのパン屋は珍しく夜遅くまで開いているんです。このクロワッサンも、ついさっき買いました。ただね、温めてもらうと、かなりの高温になって出てくるんです。毎回熱くなりすぎないようにとお願いするのですが、オーブンの仕様上、難しいようで」

「ああ、はぁ……」

な、なにを言ってるんだ、この人は? こちらは、そんなどうでもいいことを聞いているような状況ではないんだけど。

「どれくらい冷ませばちょうどいいのか、ここ一か月ほど、ずっと分析をしていたんですよ。一分経っても、まだ熱い。二分でも熱い。三分だと今度は冷めすぎている。それで、ちょうどいい時間が二分四十三秒だとわかったんです。ただ、今度は別の壁にぶち当たりました。なんだと思いますか?」

最悪な未来を見た上に、変わり者のおじさんと出会ってしまうなんて、今日はついてない日だ……。

「わかりません」

僕はどうでもいいと思い、なにも考えずに答えた。男は口をへの字にして首をかしげ、少しだけ間を空けた後に話を続ける。

「どこで食べるのがいいか、という問題です。パン屋から自宅までは歩いて五分。これでは、冷めすぎてしまいます。まさかこんな夜に路上で、パンを食べるわけにはいきません。車が通ると危ないですし、不審者だと思われる可能性もある。そこからまた一か月ほど分析が続きました。そして、ようやくわかったんです。この公園のこのベンチまでがちょうど二分二十秒ほど、座って二十秒ほど経てば、最高のクロワッサンを口にできる」

だから、急いで僕をどかそうとしていたのか。なるほど、なるほど。……ってなんの話なんだ、これは? 一体、僕はなにを聞かされているんだ?

「だから、急いでどいてもらいました。他にもベンチはあるのでは、と思うかもしれませんが、残念ながらライトが点いているのはこのベンチだけです。あなたがここを選んだのもそれが理由ですよね? いやいや、空いているスペースに座ればいいじゃないかという疑問を抱くかもしれません。ごもっともですが、実はこの場所が一番ライトが当たるんです。パンは見た目でも楽しむものです。あなたが今座っている位置だと、ただでさえ弱いライトが、さらに弱くなってパンが映えません。以上です。お休みのところを失礼しました」

男は話し終えると少しだけ微笑みを浮かべ、またクロワッサンを口に運びはじめた。そして、また先ほどのような無愛想な表情に戻る。

「うん、やっぱりもう冷めている。少し長話をしすぎましたね」

とんだ厄日だ。僕は大きなため息をつき、スマホをぼんやりと眺める。FVSには、まださっきの最悪な未来の動画が映されている。あの冴えない未来の自分を思い出し、僕は再び大きなため息をついた。

「こんな短い間に大きなため息を二回ですか。よっぽどのことがあったんですね」

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