オフィスから少し離れた喫茶店の奥の席で二人の男、上司と部下が向かい合って座っていた。しばらくの沈黙のあと、意を決したように部下は口を開いた。
「色々じっくり考えたんですが、辞めることにしました」
その言葉を聞きながら、少しぬるくなったコーヒーを口にする上司。マネージャとしての経験もそこそこ積んでいる彼にとって、こうした機会は一度や二度ではない。
その経験から言えば、こうしたときは、どのように慰留したところで結果は変わらない。選択肢は一つ、その辞意を受け入れるだけだ。
一体どうしてこうなったんだろう。
優秀な二人のマネージャがいた。40代も後半の塩崎と、まだ30代なかばの神原だ。これまで二人とも成果をあげてきたが、タイプが違っていた。
塩崎は、昭和世代の典型的な管理職。仕事はきっちりこなすし、責任感も強くて部下の面倒見も良いリーダーだ。
一回りもふた回りも下の年齢の部下たちのことを、なんとか立派に育てたいという思いも強い。割と自分で背負いこむタイプではあった。
神原は、管理職になりたての平成世代。部下といっても年齢は近いし、中には年上もいるし、強烈なリーダーシップを発揮するというタイプではない。
プライドもそれほどないのか困ったら割と他人に頼ることも多く、ともすれば責任感が薄いようにも見えかねない人物ではあった。
塩崎の仕事の進め方の特徴は、自分の中でしっかりと結論を出してから部下に指示を出すというやり方だった。
現場での指揮経験も豊富な彼にとって、うまくプロジェクトを成功させるには自分の想定した通りに進めることが大事なことだし、迷いや悩みは自分の中で消化してしまってから伝えるのだ。
そんな弱い姿を見せないことこそリーダーたる者の姿だと信じている。
それでも部下たちとのコミュニケーションは欠かさない。きちんと定例会議でホウレンソウの機会を作っている。部下たちは、そんな塩崎のことを信頼して尊敬していたし、きちんと認められたいからこそ、良い成果を出そうと頑張っていた。
神原はまるで逆だった。普段から部下たちと一緒に雑談をよくしており、どちらかといえば部下の方に相談をしていた。
部下から相談を受けるというよりも、プロジェクトで困ったことがあれば部下たちに相談する。リーダーシップはどこへやら、最初から部下に頼りっぱなしなのだ。
部下たちは仕方ないと思いながらも、そんなリーダーを助けている。だから知恵を絞るのは部下たちだ。神原は困ったことや問題を見つけることだけは一流だったので、部下たちの問題解決の力は伸びていった。
コミュニケーションは普段からできてるからと、あえてホウレンソウを徹底する必要もなく、定例会議もほとんどが雑談で終わる。普段から話しやすい神原には、部下たちはちょっとしたことでも気軽に不満や不安を伝えていた。
マネージャのキャラクターは、それぞれのチームの雰囲気にも影響を与えるものだ。
塩崎のチームは、成功するための計画を立てて実行するスタイル。できれば一度で成功させたい。だから、ミーティングでの風景は誰もが考えてから発言をしているし、準備も怠らない。
神原のチームは、失敗しても良いから試行錯誤していくスタイル。一度でうまくいくとは思っていない。ミーティングでは誰もが考えながら発言をするから、やたらと時間がかかってしまう。
しかし、神原のチームではミーティングが終わった頃には、コンセンサスのとれた結論が出されて、その時点で既に情報共有も済んだ状態になっている。
なによりも普段から相談しあう機会も多くある神原のチームには、ちょっとずつ知っていくために突然の出来事というのは存在しない。結論を出すのは、あくまでチームで考えた末のことだ。
短期的に見れば、塩崎チームの方がスピードは早い。しかし、長期的な目線で見れば神原チームの方も変わらないか、それ以上の成果を出していた。
そう、違いは時間とともに現れてくる。
塩崎の部下たちは、徐々に何をするにも上司の決定を待つようになってしまった。
一方で、世の中の動きは早くなり、顧客の価値観は多様化していく中で、それまでの経験をもとに熟慮したからといって正解を導き出せるとは限らなくなってきた。
そのために、一週間前に言ったことを覆さないといけないことも出てきた。部下たちに申し訳ないと思いながら、成功のためにも、また違う結論を出す。なんども続くと、部下たちも納得がいかなくなってくる。チームには不穏な空気が流れる。
「リーダーは孤独なものだ・・・」帰りの電車の中で、塩崎は独りごちた。
「一体、塩崎さんは何を考えているんだろう」「いきなりまた言ってることが変わったよな」「僕らのこと、信用してないんじゃないか」
部下たちの中には不信感も漂い始める。毎週、しっかりと結論は出してくれるが、結論ありきだと反対意見も言えずに、飲みくだすしかないからだ。
「塩崎さん、話はもういいですか」
「ああ、すまない。すべて了承した。会計はしておくから先に帰りなさい」
「はい、それでは、よろしくお願いします」
そう言って立ち上がって、去っていく部下。
喫茶店に一人残った彼の手元にあるカップの底にあるのは、すっかり冷めてしまってもはやコーヒーとも呼べない黒く冷たい液体だ。
期待を寄せていた部下に去られた彼の心に広がるのも、そんな黒く冷たい気持ちだった。
結論が出てから言われても、もう何もできないじゃないか・・・
もっと早くに相談してくれたら、なにか出来たかもしれないのに・・・
そう思いながら、残った苦い液体を気持ちと共に飲み下した。
教訓:大きな結論よりも小さな相談
この話はフィクションですが現実にも、色々と考えた末の結論だけを、唐突に持ち出してくる人がいます。
少しずつ聞いていれば、心の準備もできたし、途中で誤解を解消したりすることもできたはずなのに。じっくり考えすぎて結論だけを出されると、もはや手遅れとなってしまいます。
人の結論を覆すのは難しいことです。上司と部下のコミュニケーションも、互いに結論が出る前に相談をしたり、考え中のことでも伝えていけば、不幸なすれ違いは減るのではないでしょうか。