ナレッジワーカーの本質は創造的な仕事と主体性

ナレッジワーカーとは、ドラッカーの提唱した概念で、知識によって企業や社会に貢献する労働者のことを指す。そのため、知識労働者と訳された。

「知識労働というけれど、知識って一体なに?」
「知識は今の時代、なんでもググれば出てくる」
「知識そのものには価値はないのではないか?」

これは「知識労働者」という訳によって誤解が生じてしまったのだと思う。あらためてVUCAと言われる今の時代にこそ、マニュアルワーカーでなくナレッジワーカーの存在が求められていると感じる。その違いは以下の通り。

本稿では、上記の違いについて深堀りしつつ、ドラッカーが語った正確な定義かどうかはさておき、私の考えるナレッジワーカー、ナレッジワークとは何かを示そうと思う。

ナレッジワークとは、創造的な仕事のことではないか

ナレッジワークの反対はマニュアルワークだ。すなわち、大量生産のために機械にあわせて同じことを繰り返すことが求められる仕事だ。自分で考えることのできない仕事。では、ナレッジワークとはなにか。

ナレッジワークとは「創造的な仕事」のことだと私は考えている。これまでにない新しい価値を生み出す仕事のことだ。そう聞くと、アーティストのようなイメージをするかもしれないが、それだけではない。

現代の多くの仕事が、既に創造的な仕事になっている。たとえば、ライターやデザイナーの仕事だ。これらは、世界に存在していなかった作品を新たに作るので、非常にわかりやすい創造的な仕事だと言える。

もちろん作品を作らない創造的な仕事もある。たとえば、経営や人事の仕事にも創造的な要素は大きい。採用の面接や人事評価はマニュアル通りにはできないし、会社など100社あれば100通りの経営がある。

事業企画も、マーケティングも、カウンセリングも創造的な仕事だ。創造的な仕事の特徴は、再現性が低いことだ。毎日、同じことを繰り返したり、他の人と同じ結果を出すのは創造的な仕事とは言えない。

たとえば、ライターの仕事で考えると、昨日と今日で同じ文章を書くことはないし、もし同じ部署に他にライターがいたとしても、それぞれ別々に同じ文章を書くことはない。これが創造的な仕事の特徴だ。

そう考えると、顧客ごとに売り方を工夫するなら営業の仕事でさえ創造的な仕事になる。マニュアルを超えたホスピタリティを発揮できる環境なら、店頭販売の接客も、介護や看護も創造的な仕事になりえる。

つまり、ドラッカーの時代に使われたブルーカラー、ホワイトカラーとは軸が違う。身体を動かすかどうかは本質ではない。ホワイトカラーでもマニュアル通りにしか動けないなら、創造的な仕事ではない。

主体性を持てば、どんな仕事もナレッジワークになる

コンピュータやロボットといったテクノロジーが発達するごとに、マニュアル通りの仕事は奪われていく。なぜなら、毎日同じことを淡々と変わらずこなすのは、コンピュータやロボットの方が得意だからだ。

人間は、毎日変化する。何もしていなくても老化は進むし、新しい知識を得たり、何か経験して変化する。変化し続ける人間にとって同じことを繰り返すのはツラい。だから労働はツラいものと思われていた。

一方で、創造的な仕事には遊びの要素がある。マニュアルから外れて、自分の頭で考えることができるのは楽しいものだ。遊びが楽しいのはなぜか。自分で考えて試すことができる、自由な裁量があるからだ。

だから、創造的な仕事は、金銭的な対価のためだけの労働という意味合いよりも、仕事から得られる楽しさや成長といった体験的な対価を得るための活動になりえる。仕事をする行為そのものに楽しさがある。

創造的な仕事の価値は、マニュアルを越えたところにある。つまり属人的な部分にこそ価値の差別化が生まれる。創造的な仕事では、かつて多くの現場で言われていたような「属人性の排除」をしてはいけない。

創造的な仕事に求められるのは主体性だ。主体性を持たなければ、マニュアルにない価値を生み出すことはできない。主体性をもてば、あらゆる要素に改善したい意欲が湧くし、そうすれば成果を出すことができる。

一方、マニュアルワーカーだと客体で何も考えずに労働することはできる。しかし、そこでも主体性を持てばマニュアルを超えられる。たとえどんな仕事であっても自分なりの工夫をして改善するなら、創造的な仕事になるのだ。

創造的な仕事かどうかは、職種ではなく取り組む人が思考停止するかしないかの違いだ。環境や職種のせいにして思考停止していては、仕事を楽しむことはできないし、成果を出すことなどできないだろう。

ナレッジワークでマネジメントをどうすればいいのか

マネジメントを管理と訳したのは失敗だったのと同じく、ナレッジワークを知識労働と訳したのは失敗だった。マネジメントは「いい感じにすること」で、ナレッジワークは「創造的な仕事」だ。訳さずに使おう。

では、ナレッジワークをマネジメントして生産性や品質を高めるにはどうすればいいのか。創造的な仕事は、マニュアルを越えたところに価値があるので、どれだけ立派なマニュアルを用意しても効果は薄い。

創造的な仕事に、昔ながらの指示命令や監視ではうまくいかない。そもそも再現性が低い仕事に対して、事細かに指示命令は構造上できない。記事を書く仕事の指示を一言一句したら、もはや仕事は終わる。

「良い記事を書け」「良いデザインにしろ」「うまく経営をしろ」「丁寧な接客をしろ」どう言ったところで、どれも掛け声にしかならない。どれだけ権力があったり、高い報酬を払っても強制はできない。

創造的な仕事の成果は、本人が、どれだけ主体的に自分ごとで仕事に取り組むのかにかかっている。逆に、本人が思い入れをもって仕事に取り組めば、時間で管理しなくても仕事のことを考えるようになる。

創造的な仕事で、外発的動機づけだけで働かせようとしても良い成果が出せることは少ない。マニュアルを超えた価値を出してもらうには、自分で考えたいと思うだけの、内発的動機づけこそが重要になる。

内発的動機づけを究極に発揮してもらうには、本人の興味関心のある仕事に取り組んでもらう。そのためにマネジメントができることは、本人の興味関心を聴き出すこと、それにマッチする仕事にアサインすることだ。

個人の興味関心と、組織からの期待をすりあわせていくことが、創造的な仕事であるナレッジワークをマネジメントする仕事になる。そうした組織には、指示命令や評価をする人は要らなくなる。すなわちセルフマネジメントの組織だ。

ナレッジワークの内発的動機づけを最大限に発揮する

私の経営する株式会社ソニックガーデンでは、指示命令する管理職がおらず、50人ほどの社員全員がセルフマネジメントで働いている。部署や事業部もなく、一人が複数のプロジェクトやチームに参加し、組織全体を統治するヒエラルキーもない。

一人ひとりに求める仕事は、プログラマであれ、ディレクターであれ、マーケティング担当もカスタマーサポートも、経営や人事でさえ、創造的な仕事をすることを求めている。いわば全員がナレッジワーカーである。

そうした会社だが、管理はしないがマネジメントはしている。マネジメントチームが社員一人ひとりと「すりあわせ」と呼ぶ機会で個別に話をして、彼らの興味関心と、会社からの期待をすりあわせて仕事を決めていく。

そうした内発的動機づけで働ける環境をつくることが、マネジメントの仕事になる。また、評価がないためグレードごとに報酬は一律にしている。金銭的報酬でコントロールせず、ベーシックインカムのように提供する。

こうすることで、生活や将来の不安を取り除いた上で、その人が興味関心のある仕事に打ち込めるようにすることで、より高い生産性を発揮することができる。欲求をコントロールして人を支配することをやめたのだ。

評価や権力がないことは、強制的な指示命令ができないことになる。そうすると、あらゆる仕事は、全員に拒否権があり、お願いをするしかない。納得できない理不尽な仕事は取り組んでもらうことはできない。

このことは、ドラッカーの言う『ナレッジワーカーはボランティアとして取り扱わねばならない』の言葉に符合する。それを仕組み化しているのだ。理不尽のない世界は、誰もが気持ちよく仕事に取り組むことができる。

マズローの言う5つの欲求で考えるとき、下位層から満たしていくことで上位の欲求を持つことができるという。あらゆる欲求は前提として渡すことで、自己実現・自己超越だけを求める人たちの組織にしようと考えている。

リモートワークはナレッジワークでこそ成果を出せる

ナレッジワークとセルフマネジメントは切り離して考えることはできない。ナレッジワーカーをマイクロマネジメントすることはできないし、セルフマネジメントできない人ならばマニュアルワークせざるを得ない。

主体性さえもてば、あらゆる職種でナレッジワーカーになることができる。ナレッジワーカーになれば、時間で管理されなくても、いつでも頭の中で仕事のことを考えるようになって成果を出すことができる。

もっと良くできないか、もっと上手にするためにはどうしたらいいか。そんな風に、創意工夫が許されていれば、それは仕事中かどうかに関わらず考えてしまうし、そもそもアイデアはいつ閃くかわからない。

そのように主体的に働く人たち、ナレッジワーカーには監視や管理は適さない。そんなことをする必要などないからだ。そうなると、どこで働いたとしても関係はない。つまり、リモートワークに適している。

リモートワークに向く職種と向かない職種がある。物理的に存在していることに価値がある仕事は、たとえナレッジワークでもリモートワークは難しいだろう。それ以外は、どんな仕事もリモートワークが可能なはずだ。

マニュアル通りに手を動かすだけで、主体的に働く意思のない集団だとしたら、それには外発的動機づけで管理をしていくしかない。そうなると、見てないとサボってしまう恐れがあり監視したくなってしまう。

主体的に働きたいナレッジワーカーたちが、そうした監視に対して反発するのは当然のことだろう。ナレッジワーカーとマニュアルワーカーそれぞれに適したマネジメントがある。そこのミスマッチが不幸の原因だ。

では、どんな職種でさえ主体性をもてばナレッジワーカーになれるのだとしたら、マニュアルワーカーとナレッジワーカーを分かつものは一体なんだろうか。どうすれば主体性を持ってくれるのか。その鍵が組織文化だ。

ナレッジワーカーたちで構成された組織を支える文化

生き物を相手にするには、生き物そのものをコントロールしようとしても、意のままには動かない。ナレッジワーカーも同じである。ではどうやって治めればよいのか。それが『文化とは、軍事に頼らないで人を治めること』につながる。

ルールや権力に頼らず、どうやって人々の行動に一貫性をもたせるのか。それは、組織に根付いた文化によるものだ。文化があれば、人々は安心して自分たちの行動の指針を考えることができる。

文化とは、そこで働く人たちが花だとしたら、土壌である。植物に、どれだけ良い花を咲かせるように指示命令しても咲くことはないが、良い土壌さえ作っていれば、自然と美しい花々を咲かしてくれることだろう。

組織マネジメントにおいて、文化づくりは非常に重要である。たとえば、私たちソニックガーデンには「遊ぶように働く」という文化がある。仕事に夢中になって、まるで遊んでいるように見える、そんな風に働きたいと考えている。

ナレッジワークとは、創造的な仕事であり、それには遊びの要素があり、だからこそ内発的動機づけで働くことができて、結果として夢中になって働けるのではないか。そんな文化を根底に置いている会社なのだ。

どうやって文化を醸成するのか。立派な額縁に飾っていても、文化にはならない。文化は、そこにいる人たちに日々実践されていくことでしか浸透しない。そして、リーダーは文化を体現していく存在でなければならない。

組織文化をつくることに関しては以下の本がオススメだ。

文化(Culture)の語源が、Cultivate(耕す)であり、偶然だけど、組織マネジメントの中心に「文化」を置いているソニックガーデンには「ガーデン」という言葉が入っていることは、とても興味深いことだった。

あらゆる仕事がナレッジワークになる未来での働き方

経済至上主義からの脱却をドラッカーも説いていたが、テクノロジーの発達によって、人々が労働する時間が減っていき、ベーシックインカムのような仕組みによって、労働から開放されるときがくるかも知れない。

生活の保証がされれば、人は金銭的報酬のための労働をすることはなくなるだろう。しかし、そうなったとしても、創造的な仕事は続けていくのではないだろうか。得られるものは、金銭とは違う価値だからだ。

消費的な活動だけを続けていても人は飽きてしまう。創造的な活動は、いくらでも飽きることはない。さほど高い金銭的な価値を生み出さなくてもよくなれば、自分なりの創造的な仕事はいくらでもあるだろう。

人類が金銭的な制約から開放されたとき、労働はなくなるが仕事は残る。そこに残されるのが創造的な仕事、ナレッジワークではないだろうか。誰もが創造的な仕事に就いて、仕事を楽しむようになる未来が楽しみである。

最後に改めて「ナレッジワーク」の翻訳をみるに「知識労働」ではないと思える。そもそも、英語では”labor”と”work”は違っている。laborの方が使役される労働の意味合いが強く、workは自主的な活動の意味合いが強い。

すなわち、ナレッジワークは「知識労働」ではなく、やはり「ナレッジワーク」なのである。

倉貫 義人

株式会社ソニックガーデン代表取締役社長。経営を通じた自身の体験と思考をログとして残しています。「こんな経営もあるんだ」と、新たな視点を得てもらえるとうれしいです。

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